■コラム「マダムの部屋」 バックナンバー |
マダムの部屋 「禅でアートなスケルトン」 この間オリンピックに出た。「どうだった?」と聞かれることは多いが、一言ではとても答えられないので、このことは追々、伝えていきたい。 ちょっとだけ言うなら、4年前の長野五輪の時、自分が競技者として、スタート台に立っているとはつゆ思わなかった。いろんな友達に、「びっくりしたよ」と言われたけど、ある意味、私自身が一番びっくりしているかもしれない。でも、決して偶然ではなかったと自信を持って言える。 この4年間は相当考えた。多分、自分が生きてきた三十年あまりの中で、一番、頭を使うと同時に行動にも出た。1段ずつ昇っていくべき階段を5段抜かしする感覚。疲れたら息をついて、考えて、またとんで。5段抜かしは「賭け」のようなもので、ぎりぎりのところまで追い込んで、流れに身を任せた。そんな中で妙な自信もついた。オリンピックはその結果だったな・・・。 小さい頃から木登りや高いところが好きな活発な子どもではあったけど、競技スポーツは高校時代の部活動(陸上)で、果てた。だいたい、運動(競技スポーツ)あんまり好きじゃなかったんだよね。なんでかというと、体を酷使しても疲れるだけで、何が面白いのかわからなかった。得点とか、タイムとかだけで価値判断されるし、その行間にあるものを自分でも読みとる能力はなかった。でもなぜか、スポーツにかかわっていたけど。 スケルトンを見ていただけの時は、併走する人がいないし、目の前をしゅっと一瞬で通り過ぎるだけだから、見る人にとっては、難しい競技かもしれないと思っていた。でも、やってみてほんとに面白いと感じた。「極めたい!」と初めてひらめいた。「怖くない?」とかよく聞かれるけど、怖かったら、やらない。あえて怖さを語れば、自分の精神的なスキが滑りに出ちゃうということ。見ている人にはタイムしかわからないけど、自分ではありありとそれがわかる。 画家(書家でもいいけど)は、おおむね単独で、真っ白なキャンバスの前に向かって、自分の作品を作り上げていくが、スケルトンは、約1分で作品をつくるような感覚かな、とも思う。スケルトンに興味を持った知人が「動く禅」と表現したが、それはいい表現かもしれないと思った。 世界に近いというのも、魅力かもしれないけど、それより何より、私にとっては自分を極める手段、「道(どう)」の世界だと思えるからモチベーションを保てている。 さらに、人生をひとつの作品(=アート)とするならば、スケルトンは、私にとってはそれを彩る大きな一つの素材かもと思っている。 |
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